日本製コンピュータの歴史 R3.10.23 LINE新着配信
理化学研究所と富士通が共同開発したスーパーコンピューター「富岳」がスパコンの計算性能を競う4つの世界ランキングで1位になりました。半年ごとの発表ランキングで、昨年6月・11月に続き、3期連続で4冠を達成。このように、今でこそ世界に冠たる日本のスパコンですが、その進歩の歴史は苦難の歩みでした。
池田敏雄は1923年(大正12年)8月7日、東京の生まれ。関東大震災が起きる1ヶ月ほど前です。中高とバスケ少年、富士通入社後もチームを組んで国体3位という成績を残しました。センターとして出した個人得点記録は65点。あらかじめ数百通りもの攻撃パターンを考えて、システマティックな動きにしたようです。NBAみたいでしょう。この時すでに、コンピュータ名機開発のプロジェクトチームをリードする才能の片鱗が見えていたのですね。
彼が富士通の前身、富士通信機製造(株)に入社したのは、第二次大戦終了翌年、敗戦の混乱が続く1946年(昭和21年)のこと。入社後まもなく、富士通の電話機が初めて日本電信電話公社(現在のNTT)に導入されました。だが、すぐにダイヤルの作動障害が起きたのです。社内が騒然とする中、池田はダイヤル作動を理論的に解析し、問題の本質を明らかにしました。この段階で、彼の有名が広がったのです。若き日の池田はまことに型破り。新しいアイデアが浮かび、それに思考が集中すると、何日も自宅にこもり出社を忘れてしまう。また、逆に何日も会社に泊まり込んで研究に没頭することもあったそうです。
このような行動は、ふつう、組織の中ては疎んじられ(仲間はずれ)ます。しかし池田は、35歳で電算機課長、41歳で電算機技術部長、47歳で取締役と、目を見張る出世ぶりでした。なぜなのでしょうか?池田の才能を高く評価した上司がいました。社内の給与規定を変更してまで、池田を支えたといいます。また、彼の才能に惚れた多くの仲間達、彼らの支援や協力も捨てがたいものでした。池田は、電話交換機・電話機の改良研究に没頭、ダイヤルスピードの精密測定が可能な電子式ダイヤル速度測定機を完成させました。そしてこれがきっかけとなり、彼はコンピュータに目覚めたのです。あるとき、東京証券取引所の取引高精算用計算機を開発してみないかという誘いが舞い込みました。国産コンピューターの開発という大命題が浮上、池田はその中心人物としてチームを引っ張ることになったのです。社内の多くの優秀な人材が彼の元に集まりプロジェクトチームが発足しました。富士通は、次第に通信機メーカーからコンピューター開発へと比重を上げていきます。それが加速したのは、1959年の社長交代でしょう。コンピューターに社運をかけるようなったといいます。そして新しいコンピューターが完成。事務機器にも導入されたのです。しかし、あまりにも演算速度が遅い。記憶がやや不確かなのですが、苦労して作った国産コンピュータも、最初はIBM社の100分の1程度の能力だったかと、覚えがあります(違ってたらお許しを)。
当時は大型コンピュータの時代。その先端を走っていたのが、米国のIBM社です。IBMは今でこそ、クラウドサービスやAI開発中心の企業で、コンピューター開発には力を入れてないと私は認識してますが、当時は違ったのです。(現在も従業員は40万人近い巨大企業です)まるで、巨象に向かう蟻みたいなイメージでしょうか?仲間達と幾多の苦難を乗り越え、初めてICを搭載したFACOM 230-60が完成したのは10年後の1968年(昭和43年)。コンピュータにおいて日本を米国とほぼ対等にし、富士通を国内一位に押し上げたのです。だが、世界を相手にしたいという池田の高志は留まる所を知らず、1974年(昭和49年)には、カナダのコンピュータ・メーカーCCIの社長と商談予定でした。しかし、出迎えにいった羽田空港で彼は倒れたのです。そして、11月14日に帰らぬ人となりました。享年51歳、「コンピューターの天才」と呼ばれた男の壮絶な最期でした。
NBAに夢中になっていた1980年代は、「コンピューターって何?」という感じ、職場でいじってる人はごく少数でした。値段も高価、思い切って購入しても無知な私には使いこなせず、無駄となりました。教わることさえままならなかったんです。でも、それよりずっと以前、私が生まれる頃から既に、コンピューターの研究開発を進める人達がいたんですよね。今、我々が様々な便利さを享受できてる裏側には、このような先人の苦労と情熱があったことを、決して忘れてはならないと思います。
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