練習生原稿46「ジョン・ストックトンという男」 Sugi Academy R2.7.18
先週の練習会で、PGの手本として「ジョン・ストックトン」を紹介した。もう動画を見た人がほとんどだと思うが、練習に参加してない人もあり、少し詳しい情報を伝えようかなと考え、急遽原稿を書き上げた。現役時代を生で見てた私からすれば、書かれている以上のすごみをよく理解できる。参考にしてほしい。
名前:John Houston Stockton 生年月日:1962年3月26日 出身地:ワシントン州スポケーン 身長:185cm 体重:80kg ポジション:PG
地元では有名だったが、全国的知名度はなく、ドラフトでエントリされるとは、夢にも思ってなかったという。その証拠に、ドラフト当日会場にはおらず、自宅でTVのドラフト中継を見ていた。
NBAのドラフトで、ワシントン・ウィザーズから1巡目(全体9位)指名されたことで日本中で話題となり、活躍してる八村塁。日本人初の快挙で、1季目の年棒は約4億円にものぼるといわれている。そもそもNBAのドラフトで指名されるのは世界で60人のみ。米国内の高校でプレーしている選手がNBAドラフトで将来的に指名される確率は0.03%(1万人に3人)といわれ、その中でも高額サラリーを保証される1巡目指名を受けたことは、間違いなく日本スポーツ界にとっては“歴史的快挙”。世界中に4億人以上の競技人口がいるというバスケで、60人に入りしかも1巡目指名なのである。
なぜ八村選手の話をしたかというと、ゴンザガ大学でのエピソードを紹介したいためだ。実はストックトンの出身校がゴンザガ大である。八村が朝練のために体育館へ行くと、おじさんが1人シュートをしていた。それがストックトンだったが、八村は知らない。その後、おじさんに「僕のパスをとってごらん」と言われやってみたが、あまりにも鋭くよいパスだったので、反応できなかったという。パス中心にいろんな技術を教えてもらい、ストックトンの凄さに八村はとても驚いたそうだ。現場状況を見たわけじゃないので、詳しいことは不明だが、八村の新たな進化がここから始まったともいわれる。
ストックトンが在籍してた頃のゴンザガ大は弱小校であり、当時の私も初めて聞く名称であった。当然アメリカ全土でも無名校。NBA殿堂入りしており、NBA史上最高のPGの1人といわれるレジェンドプレイヤーのストックトンだが、プロ入り当時は、本人・大学ともに知られてなかったのである。「ゴンザガ大のストックトンか?ストックトン大のゴンザガか?」というジョークがあったほど無名の存在だったという話は有名だ。きっと本人は、頂点目指して努力したのだろう。でも、NBAは狭き門、簡単に達成できはしない。NBA関係者のほとんどが関心を示さなかったストックトン。目をつけたのがユタ・ジャズ。彼は、1巡目16位でユタから指名を受け、TVの前で半信半疑だったようだ。ユタただ1チームが、ストックトンの才能を見抜きNBAのステージに引き上げた。彼の努力が見事開花したのである。といっても最初から順風満帆とは行かない。控え選手の時期をこらえ、低いシュート率を上げるため、1日1000本シュート練習したという。まあ、真偽はわからないけど、そんなひたむきさも含めて、偉大な才能なのである。
「千里の馬は常にあれど、伯楽は常にはあらず」という故事成語。「千里の馬」は、一日に千里(1里は4km)も走れるほどの優れた馬。転じて、優れた才能の人物。「伯楽」は牛馬の良し悪しを見分ける名人。転じて、人物を見抜き、その才能を引き出し育てる優れた指導者のこと。有能な人材はいつの世にもいるが、その能力を見い出して育てる優れた指導者は少ないということのたとえである。当時のユタは、まさに伯楽だったわけだ。ユタジャズなしでは、非凡な才のストックトンも世に出ず埋もれてしまったろう。日本国内でも、似たようなケースはきっとある。人の運命とは不思議なものだ。なお、「常に伯楽でありたい」というのは、私自身の強い願い、目標でもある。
頭角を現してからは、冷静なゲームメイクと正確なシュートを有する正統派のPGと評価される一方、並々ならない勝利への執念が元で、NBAで最もダーティーなガードとも呼ばれたストックトン。アシスト記録歴代NO1。スリーポイントやスティール、DEF、勝負所のクラッチシュート、あらゆるスキルに優れ、マローンとのコンビプレー「Pick & Roll 」は、NBAの歴史に燦然と輝き続けている。
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