ブン爺の身長は160cmです。今は縮んで158cm。ミニバス教えてた頃は、ボウスハンドダンクやってました。ミニリングでですが、このサイズならなかなかでしょ。体中が老朽化、今となれば、ただの「懐かしい想い出」です。少しでも維持しようと、思ってはいますけど……。
大学卒業後、T小学校に就職。ミニバスチームを立ち上げ(初年度実質的活動は3ヵ月、男女合同?)、男子新チームで2年目市大会、3年目に県大会優勝。全国大会では、年間無敗の東日本最強チームを撃破しトップブロックで全勝、優勝に匹敵する結果を得ました。(この頃は交歓大会だったので、目を見張るほど戦力の充実した強い教室チームがいくつも参加していたのです。中には170cm代3枚なんてチームもありました。反則~。)全国大会数ヶ月前、静岡市の招待試合があり、東京の有力チームが参加。私のチームと対戦、さんざんにやられたのです。そのチームの監督さんが全国大会運営の中心人物だったと、後ほど聞かされました。T小の力を知っておられたので、最強ブロックに入れてくれたのですね。おかげさまで、前述のチームだけじゃなく四国NO1とも試合できました。また残る一つのチーム(多分、関東エリアの単独チーム1位だったのかなと?)のエースは、バスケ始めて10ヵ月という話。ドリブルのボールは手に吸い付くよう、「嘘だろ」と言わずにいられなかったですねえ。エンド沿いにドリブルした後、いきなりのダンク。身長164cm 小6ですよ。若かったこともあり、私の闘志が炎上。あの時の大会ほど、勝ちにこだわるゲーム運びした記憶はなかなか少ない。非常に充実した激戦の大会となり、感謝の一言でした。老いて振り返ると、一層ありがたみを感じます。なお、翌年は県の決勝で敗退、ミニバス5年間を終えました。自分の持った小中全チームで、1年間に最も著しい伸びが見られたのは2年目市大会優勝チーム。年度当初はヒョロかったんですが、最後の大会では、県優勝した西部チームを残り1秒までリードしてたんですよ。でも、がっくり(まあ、10ヵ月くらい前は60点差ほどで、試合にもならなかったですが)。皆さんのチームも諦めず練習すれば、きっと伸びます。そして最高の完成度だったのが3年目の全国メンバー達、小学生にこれ以上望んでも無理だろうくらいの出来上がりでした。印象深いわけですよね。 *随分昔の話ゆえ、多少の誤りはあるかも。笑って許してください。 60点差、奇跡の逆転 https://saschool-blog.com/?p=4577
卒業後6年目、中学校へ勤務、以後はずっと中学校教諭でした。公立小中学校で、28年間バスケットボールを教えました。戦績を鼻にかけるみたいでやや心苦しいですが、自分のしてきたことを掛け値なしで知ってほしい。それが、訪問してくださった方々にも親切かと……。優勝総回数は60回以上です(東海大会3,県大会6,市・中部大会50数回)。県大会 best 4 は5?、全国大会出場は3回です。全中大会では、優勝候補四強の1つを崩し全国に激震が走りました。勝負は水物ですが、一応ここまでは予定内。そう思ってたのは日本中で私だけだったかもしれませんけど。しかしですね、いいことばかり続かない。全く予期せぬ事態が発生……、無念ながら、その後敗退(九州一位に勝利、二位に負け。そのチームが、全中 best4)。優勝は、千葉ジェッツの富樫選手がいた新潟本丸中(彼は現在、全日本チームのPGです)。一桁差の接戦が目につくハイレベルの大会でしたが、私的には、十分やり尽くせなかった思いが残りましたね。翌年も、大志を抱き鹿児島へ、でも、昨年とは別原因で再び……最大出力発揮できず。月刊バスケでは、優勝候補の一つに挙げられてたんですよ。七割方勝てそうにないチームが2つあったので、私個人は「組合せの幸運で best4 くらいが妥当」と考えてましたがね。終えてみればクオーターファイナルにさえ残れない悲惨。東海大会、決勝ですらWスコア、そう弱いチームじゃないと思ってたけど……、天運がなかったのかも。想定どおりだったのは、ミニ全国大会だけでしたねえ。思惑どおりにはならんものです。それもまた、人生ですか。
若い頃より、NBAやNCAAが大好きで(当時は、バスケ関係者ですら、NBA?何それ?という時代)、先進技術を積極的に学び、自分の指導に取り入れました。県内で最も早くレッグスルーやビハインドドリブルなどをやり始め、普及にも貢献できたでしょう。世界バスケ史上最強といわれる「初代ドリームチーム」、そのメンバーが活躍していた時代を目の当たりにし、技術やハートを勉強したのです。随分お金かかりましたが、いち早くアメリカナイズされた私のバスケ理論は、多くの分野で、旧来の一般的指導法と違うものになったのではないかなと思います。 米国バスケの教え https://saschool-blog.com/?p=3450
退職間際の不健康状態を脱した今は、常に、永遠の目標であるNBAを向いています。当然、NBAを始め世界バスケの潮流を意識してはいますが、指導法自体が流行に流されることはありません。自身のバスケ哲学にのっとり適宜選択されます。
一例を挙げてみましょう。NBAでゴールデンステイトの連覇以降、DEFにおいてはヘッジ系からスイッチングDEFへ主流が変化しつつあるといわれます。Bリーグから高校にまで、その流れが押し寄せてきてる。新しいことにチャレンジするのは嫌いじゃあない。でも、確たる信念のない、もの真似みたいなことは決してやりません。少なくも、S.A.の練習会でスイッチングDEFがメインになる確率は10%程度(スイッチ練習とかはやりますけどね)。そこに強い哲学があるんです。私に賛同してくれる方ばかりではないでしょうね。それでも構いません。信念のもと、我が道を突き進むだけです。
願わくば、多くの人達に支えられんことを……。
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